Vol.29
文脈から判断できる質の高い"看視"で付加価値高めるピットクルー株式会社 代表取締役社長今回は、ネット監視の業務で早くから経験を積まれ、現在は学校裏サイトの取り締まりにも積極的に協力をされているという、ピットクルーの小西社長に話を伺います。昨年10月より創業者の松本会長から社長の座をバトンタッチされ、現在は超多忙の中お時間を作っていただきました。 ![]()
![]() ―まず最初に、学生時代のころのことをお聞きしたいと思うのですが。 ![]() ―ちなみにどのくらいの種類のバイトを経験したんですか? 小西氏 20~30種類くらいじゃないですかね。 ―ええ! それはすごいですね。印象に残ったバイトはありましたか? 小西氏 一番おもしろかったのは鉄工所のバイトですね。今は一部上場している立派な会社なのですが、そのころは門前仲町の冷凍設備を作っている町工場だったんです。最近では、長野オリンピックのときに氷を張る技術などで有名になった会社なんですけど、当時はいろんな冷凍設備を作っていたので、私は冷凍機のパイプとパイプをつなぐお手伝いをしていたんです。上司は17歳で、中卒で溶接工になった人でした。年下なんだけど職人だから技術がすごい。年下からアゴで使われても、文句なしにすごいと思っていましたね。20数日間バイトして2万5000円ほどいただきました。それでコンタクトレンズを買ったら1万円があっという間になくなってしまいましたけど(笑)。 ―へぇ、当時の2万5000円というのは学生にとっては相当の金額だったんじゃないですか? ほかにはおもしろかったバイトはありますか? 小西氏 友達の伯父さんが輸入雑貨を売っていて、百貨店で平台を借りて販売するんです。昔は結構腕のいい営業マンだったので(笑)、中国のお香、置物、アフガニスタンの毛皮のコートなどを1日に20万円くらい売り上げていましたね。昔はコンビニのバイトとかなかったですから、バイトの種類が少なかったんです。 ―これらのバイトの経験が今も生きていますか? 小西氏 会計士になると背広をきてメーカーさんのところに行くんですが、そういう工場で働いている方は背広を着た人間を警戒して、すぐ「帰れ」っていうんです。そのとき、私がなにげなく「まだウエス(機械をふく布のこと)使うんですね」と一言いうと、「この背広着た兄ちゃんはウエスのことを知っているんだ」と親近感を持ってもらえて話を聞いてくれるようになるんです。もちろんそういった知識だけじゃなく、工場で自分の父親の年齢ぐらいの人と働く経験ができたということも結果的に社会人になってからすごく役に立ちましたね。 ―大学の授業が再開してからはどういった学生生活を? 小西氏 大学2年の終わりにゼミの募集があったんですけど、成績が悪いから落とされたんです。それで「もう大学には行かないぞ」と思いました(笑)。そのとき、たまたま先輩にすすめられて会計士の学校に行って会計士の資格を取ったんです。大学と会計士の学校とのダブルスクールだったんですけど、大学には籍だけおいて、ほとんど昼間から会計士の学校に行っていました。でも、会計士の勉強をしているときも、会計士はいったいどんな仕事をするのかわからずに勉強していましたけど(笑)。 ―社会人になってからはアーサー・アンダーセン・アンド・カンパニー(現、あずさ監査法人)に入られたんですよね。 小西氏 ![]() ―じゃあそのときまでは英語はほとんどできなかったんですか? 小西氏 そうなんですよ。入試以来まったく英語を使っていませんでしたからね。慣れないうちは、先輩が前年に作った英文の書類を見ながら、まねして作っていましたね。 財布は忘れてもOKですが、英語の辞書を忘れたら仕事にならない毎日でした。 ―アーサー・アンダーセンはどんな会社だったんですか? 小西氏 職場自体は活気のあるおもしろい職場でしたね。入所してから1年くらいたつとアメリカに研修に出されるんです。シカゴに常時800人くらい泊まれる研修施設があって、大学教授クラスの人が300人ほどいるような施設です。会計、モチベーションのアップ、金融、心理学、しゃべり方などの授業を受けたんですが、トレーニングマニュアルが非常によくできていて、すごくおもしろかったですね。そこで研修を2週間受けて、研修の一環として海外の事務所で1年くらい仕事をしました。もし社会人のスタートでその会社に入っていなかったら、まったく違う人生だったかもしれないと思いますね。英語はあまり身にはつきませんでしたけど(笑)。 ―その後独立されて、広島に会計事務所をもたれていますが、なぜ広島だったのですか? 小西氏 父親が年をとったということもあり、地元の広島に帰ることにしました。父親はサラリーマンだったんですけど、子どものためを思って転勤をしなかったんです。子どものころは親の気持ちなんて考えたことはなかったんですが、親が子どものために少なからず人生を変えたんだから、子どもが親のために人生を変えるのもありかなと思ったんですね。 ただ、地元に戻ったといってもじっとしているわけではなかったので、東京と広島を行ったり来たりしていました。それは今と変わりませんね。 ―これまた、いい話ですね。今も広島にご自宅があるんですか? 小西氏 はい。妻は向こうにおります。子どもは大きくなったので、別に暮らしていますが。妻は広島の人間じゃないので、だまされたと思っているかもしれませんね(笑)。仲間と一緒に東京でコンサルティングファームを作っていましたから、本当に行ったり来たりですね。 ―ところで、もともと会計士の小西さんがどのようにしてシステム関連のお仕事にかかわるようになったんですか? 小西氏 会計士として、周辺の業務であるビジネス面のコンサルティングをいろんな会社としていくうちに、自然にシステム系の仕事にかかわるようになりました。とはいえ、当初はシステムにかかわるようなビジネスプランや原価計算といった話になるとコンサルタントとして呼ばれていただけですけど...。 ―そういったお仕事にかかわる知識はアーサー・アンダーセンに在籍されていたころに身につけられたんですか? 小西氏 ベースはそうですね。ただ、この時点ではビジネスにしようとは思っていませんでしたね。いろんなことをやっていった結果、実際にそういったシステムに関するプロジェクトを作る仕事を受注できるようになったのは40代になってからですね。 ―フューチャーアーキテクトとはどういった経緯でかかわるようになったんですか。 小西氏 鹿児島に私のクライアントがあったんですが、そこの社長とフューチャーの金丸社長(現会長)が知り合いで、その会社のシステムをフューチャーが担当していたんです。今度システム作るのでフューチャーとの橋渡しになってほしいといわれたんですね。その仕事は半年くらいで終わったので、結局2回くらいしか会わなかったんですけど、その後何カ月かたったころ突然金丸社長から電話がかかってきて、「監査法人を紹介してほしい」といきなりいわれました。心当たりのある監査法人を紹介したところ、また電話がかかってきて、今度は「監査役になってくれ」といわれたんですよ(笑)。結局2年ほどやりました。そして、フューチャーが株式公開するとなった年に「小西さんは監査役似合いませんね」といわれたので、「じゃあ降りてもいいですか」といったら、「監査役は似合わないから取締役になってください」といわれて、取締役になったんですよ(笑)。 ―それは、相当金丸社長に気に入られていたんですね。そんなところから今度はピットクルーに入社することになったのはどうしてですか? 小西氏 2000年に私は広島でものすごく大きな交通事故に巻き込まれて、死にかけたんですね。大きく報道もされたんですけど、今思うとよく助かったなと思うほどの大事故でした。皆に「お前はまだ死ぬなってことだよ」っていわれましたね。だから「せっかく助かった命だから、若い人のために自分の力を注ごう」と思いました。ピットクルーの取締役に大学時代の同級生がおり、その人にさそわれてピットクルーに入社したのですが、その根底には、ピットクルーの社員が若い人だというだけでなく、業務を通じて若い人の生活に関与していけるということがあります。 ―若い人のために力を注ごうなんて、すばらしい先輩ですね(笑)。では、入社してまもなく社長に就任されたんですね。 小西氏 はい。社長になってからは、外部から見ているのと内部から見ている違いを実感しました。1カ月に1000万件のデータを人の目で監視というのは、想像するよりもすごいことで、なかなかここまでの体制は作れないなと思いましたね。 マーケットそのものが非常に成長するときなので、変な話ですが、自分が社長になった会社のすごさに自信が持て、これから先、監視というニーズが高まってくると、新規参入者も増えてきますがそのときには、この高い技術が生かせると思いましたね。 ―監視業務のマーケットは、どのように拡大していくとお考えですか。 小西氏 狭義だと3~5倍までは伸びると思います。もう少し広い範囲で考えると20倍くらいは伸びると思いますね。今はまだまだ入口段階じゃないでしょうか。 ―それにしても、ネット上の「隠語」は難しいですね。 小西氏 そうですね。例えば、「厨房」「JK」「BK」「タヒ」って何のことかわかりますか? ―いや...ちょっと。どんな意味なんですか? 小西氏 「厨房=中学生のような幼稚さ」「JK=冗談は顔だけにして」「BK=バリキモイ」「タヒ=死」という意味です。ほかにも「JS=女子小学生」「YB=役立たずの豚」「D系=出会い系」とかね。こういった隠語は誹謗(ひぼう)中傷や出会い系の書き込みでよく使われます。 こういった親が見つけても意味がわからないから、自分の子どもがいじめの対象になっているのかどうかがわからないんですよね。でも、子どもは理解しているから、自分がみんなの中でひどいことをいわれているのがわかるんです。それと、こういった言葉を理解しているふりをしないと友達になれないという風潮もありますね。 ―なるほど、そういうものが書かれているサイトに対して、御社ではどのような対処をしているんですか。 ![]() 小西氏 基本的にはサイトの運営者と相談してその書き込みを削除します。ただ、学校裏サイトでの書き込みの場合は、削除したからといっていじめられた子どもの心の傷が癒えるわけではありません。その子が過ごしている環境にいじめがあるとすれば、誰かが何かアクションを起こさないといけないと思っています。私は 10年間監視の仕事をやってきて会社もある程度の規模になってきましたから、そういったアクションを起こさなければならないという使命感があります。日本は少子化が進んでいるので、そういった次世代を担う子どもたちを守らなければならないですよね。 ―小西社長から見て、最近の若い人たちに対して思うことは? 小西氏 そうですね。この仕事に就いてから「ネットの中が一番ライブになっている」ということを実感しています。ライブなものを見ていることによって、この中にはビジネスにつながりそうなおもしろいアイデアがいっぱいあるような気がしていますね。感性が鋭い高校生が集まっているサイト内で彼らが発している言葉は今の時代を表していますから。 ―この仕事を通じて、日本の子どもたちに対して思うことはありますか。 小西氏 日本の子どもたちは自分の意見をいうことが苦手ですよね。日本の高校生が海外に行くとかなりカルチャーショックだと思いますよ。例えば、海外の高校生だと「GMに対する政府の対応についてどう思う」って、難しい話でも普通に意見を求めてきますから。 これは育った環境の違いだと思いますが、日本の若い人が強くなるためには自分の意見をきちんというようにならないといけないですね。今はネットが裏側にあってそこが意見をいう場になってしまっているから、口に出して自分の意見をいる人がもっと減ってしまうのではないかと危惧(きぐ)しています。 ―こういったネット社会の流れの中で、御社としてはどういう方向で今後業務を進めていこうと? 小西氏 基本的には単純な監視ではなくて、監視のノウハウを充実させていこうと考えています。最近は言葉だけをただ監視しているだけでは厳しくて、条例や薬事法といった法律的な知識が必要な場合があります。あるいは、単純な単語ではなく書かれている文脈から判断しなければならないものが増えてきています。そういったこれまで培ってきた監視の経験やノウハウというものが生かされた監視業務というものが「質の高い監視業務」になると思います。 ―そういった監視ができる人を育てるのは、なかなか大変なことじゃないですか? 小西氏 そうですね。やはり、ある程度日本語の文脈が読める人でないといけないですね。例えば、1つの文章だけを読めばまったく普通の文だけど、前後の書き込みの文章と合わせることで特定の人物への誹謗(ひぼう)中傷ということがわかるといった場合もあります。そういう意味では、サイトの監視の仕事は誰でもすぐにできるという仕事ではないですね。ある程度のスキルが身につくまでには何カ月もかかります。 今後監視業務のマーケットが広がってくれば、単語だけの監視で済むようなローエンドの仕事も増えてくると思いますが、われわれはそれでもハイエンドの仕事をしていきたいですね。単語だけの監視でよければ、単純なフィルタリングで済みますから人の関与は必要ありません。ただ、われわれとしては、人による「看視」によって付加価値を上げる仕事をしていこうと思っています。 ―なるほど、御社の業務は現代の世の中においてなくてはならない存在ですね。私も子を持つ一人の親として健全な社会、健やかな子どもが育つ日本の未来を期待したいと思います。ぜひ、若い人に力を注ぐスタンスを声高らかにお願いいたします。本日は長時間ありがとうございました。 今回のキーワード:青少年のネット問題インターネットの急激な普及により、法整備、情報モラル教育が遅れており、青少年は無防備な状態でインターネットを利用しているケースが見受けられる。このことにより、青少年が標的とされる援助交際、詐欺、ネットいじめなどが社会問題となっており、サイト運営者においては、違法有害情報の投稿に対する監視、青少年にふさわしくない広告が掲載されないようにする審査を強化している。また、各学校、教育委員会では、青少年のネット利用実態の調査、監視(いわゆる学校裏サイト調査監視)を行い始めており、情報モラル教育にも力を入れ始めている。 |